私は3度離婚した 第1話(連載)

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「口を挟むな。誰が、お前に喋っていいと言った!」

食卓に、父の声が落ちる。
箸を持つ手が、止まる。
テレビの音だけが、やけに大きく響いていた。

私の家は、外から見れば裕福な家庭だった。
広い家。手入れされた庭。父の高級車。
近所の人は、こう言った。
「いいお家ね。」
けれど、その家の中に「愛」も「自由」も、「私」という人間も、存在しなかった。

父はワンマン経営の社長だった。何十人もの部下を顎で使う男で、家の中でも、その独裁者としての顔は変わらなかった。

食事の席で、父の機嫌を損ねるのは簡単だった。
テレビのチャンネル。
おかずの並べ方。
母の相槌のタイミング。

理由はいつも、あとから父が勝手に見つけてくるものだった。
その日も、そうだった。私が見たい番組があると言うと、父は箸を置いて、こう言った。

「黙れ。誰が発言を許可した。女はニコニコしてりゃいいんだ。」

私は、何も答えなかった。答えれば、もっと悪くなることを、もう知っていたから。
父が本気で怒ると、皿が飛んだ。
壁に当たって割れたこともある。
破片が飛び散った床を、母が黙って片付けていた。
誰も、何も言わなかった。
それが、私の家の「普通」だった。

父が私に向ける言葉は、いつも、決定事項のように、下された。

「女に学問はいらん。」
「お前は、俺の老後の面倒を見るために産ませたんだ。それが、お前の役目だ。」

冗談でも比喩でもなかった。父は真顔で、まるで会議で部下に業務命令でも出すみたいに、そう言った。
異論は、最初から、受け付けていなかった。

母は、父の影のような人だった。

父の機嫌が悪くなると、母は決まって私のところへ来た。
ガラスを引っかくような声で、私の肩を強くつかんだ。

「お父さんの言うとおりにしなさい! 私が殴られるでしょ!」

その目に、愛情はなかった。母にとって大切なのは、父の機嫌と、自分の生活を守ることだった。私を守ることではなかった。
「おまえが我慢すれば、それで済むんだから。」
母は、いつもそう言った。
まるで、それが正解であるかのように。

兄は、家業の跡取りだった。何をしても褒められた。
テストの点が悪くても、父は笑って許した。
「男は、少々やんちゃなくらいでいい。」
同じ食卓で、同じ間違いをしても、私に返ってくる言葉は違った。
「女のくせに、生意気な口きくな。」
食卓には、確かに私の席はあった。
でも、誰の目にも、私は映っていなかった。
あるのに、ない私の席。

私の未来には、たった一つだけ、予約された席があった。
老いた両親の、隣の席。
その席に座ることだけが、私がこの家にいていい条件だった。

「大学に、行きたい。」
ある日、勇気を振り絞って、そう言った。
父は、箸を止めもせずに、切り捨てるように言った。
「女に大学はいらん。嫁に行き遅れるだけだ。話は終わりだ。」
「でも、勉強したいことが……」
「黙れ。二度、言わせるな。」
短大だけは、許された。
学ぶためではない。
父にとっては、「嫁入り前の箔」くらいの意味でしかなかったのだろう。

夢を語れば、父は「ふん」と鼻で笑い、テレビに視線を戻した。
話は、それで終わりだった。
私が何を言おうと、父の中では、もう議題にすら、上がらなかった。
私は、ただ息をひそめて生きていた。

ある日、学校で「ゾウの鎖」の話を聞いた。
サーカスのゾウは、子ゾウの頃、細い鎖につながれる。逃げようとしても、切れない。何度も何度も失敗する。やがて子ゾウは、諦める。
体が大きくなり、その鎖が簡単にちぎれるようになっても、もう、逃げようとしない。

「無理だ。」
そう、信じ込んでいるからだ。

私は、まさにそのゾウだった。
それでも、心は悲鳴を上げ続けていた。行き場を失った苦しさは、少しずつ、私の中に積もっていった。

私にとって、それが過食嘔吐だった。
家族が寝静まった夜中、自分の部屋で、狂ったように食べた。
最初は、割引シールの貼られた菓子パン。
プリン。ゼリー。チョコレート。
砂糖が舌に広がる。
頭の中が、ふわっと軽くなる。
何も変わっていないはずなのに、苦しさだけが遠のいていく。
一瞬だけ訪れる、恍惚感。
その快感を追いかけるように、今度は塩と油を求めた。
唐揚げ。餃子。ポテトチップス。
味を変えながら、無心で胃に詰め込む。
テレビだけは、いつも、つけっぱなしだった。
ワイドショーでも、バラエティーでも、何でもよかった。
見たいわけじゃ、なかった。
むしろ、逆だった。
髪を振り乱し、狂ったように、食べ物を詰め込む自分。
それを吐き出すために、喉に指を入れる自分。
その姿は、自分でも、化け物のようで、とても、正視できなかった。
だから、テレビを、つける。
音と、光で、意識を、そらす。
画面の向こうの、誰かの笑い声に、すがって、私は、今、自分がしていることから、目を、そらしていた。

見て見ぬふりを、するために。
パニックに、ならないように。

やがて、胃が悲鳴を上げる。目を剥くような満腹感。胸が苦しい。動悸が速くなる。息が、うまく吸えない。
その瞬間、頭に浮かぶ言葉は、いつも同じだった。

「吐かなきゃ……。」
「消化が始まってしまう。」

カエルのように膨らんだお腹を抱え、よろよろとトイレへ向かう。吐きやすくするために、水を飲めるだけ飲み、指を喉へ突っ込む。もう片方の手をグーにして腹を押さえる。
吐くときは、苦しい。胃で膨らんだパンや鶏肉が喉をふさぎ、死ぬかもしれないと思ったことは、何度もあった。
恐怖でパニックにならないように、私は、ドアの隙間から漏れるテレビの音に、意識を向けた。
画面の向こうでは、誰かが笑っている。空気を読んで笑うタレント。
予定どおりに流れる笑い声。
その作られた笑いが、不思議と私を現実につなぎ止めた。
電波の向こうの、見知らぬ誰かの笑い声を、私は命綱のように握りしめていた。
あの人たちは知らない。今、トイレで、自分たちの笑い声を支えに、胃の中身を吐き出している私がいることを。

最初に食べた欠片が便器に浮かんだ瞬間、
「ああ、今日も終わった。」
そう思えた。吐ききったという、奇妙な達成感だった。
「消えたい」と思うほど、毎日が、つらかった。
でも、心のどこかで、そんな私を、誰かに見つけてほしかった。

やせ細れば、父は私を見るかもしれない。
「大丈夫か。」
その一言が、欲しかった。淡い期待を、捨てきれなかった。

体重計の数字が減る。私はもう一度乗る。もう一度見る。小さく笑う。
支配されきった私が、握りしめた、たった一つの権力だった。

二十四歳になった。
ある日、父から、

「食事に行くぞ。」
とだけ言われた。父の仕事関係の家族との食事会だった。

相手の男は、終始、私を見ずに、父とばかり話していた。
父は上機嫌だった。私に話を振ることは、一度もなかった。

「はじめまして。」

その日、私が話したのは、それだけだった。
家へ帰ると、父は当たり前のように言った。

「半年後に、あの息子と結婚だ。決めた。」
「え……相手のこと、私、何も知らーーー」
「知る必要ない。」

父は、私の言葉を、最後まで、聞かなかった。
「向こうの家は、ちゃんとしてる。俺が決めたんだ。それで十分だろう。」
「私の気持ちは……」
「気持ち?」

父は、そこで初めて、箸を止めて、私を見た。

「お前の気持ちなんか、誰も、聞いてない。俺が、いいと言ったら、いいんだ。」

それは、相談ではなく、決定だった。覆る余地は、どこにもなかった。
私は、親が決めた相手と、結婚した。

親が選んだ夫。親が建てた家。
支配される場所が、変わっただけだった。



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