子育てが、終わった。
そのことに、私が、本当の意味で、気づいたのは、ある休日の、午後だった。
午後の陽射しが、緩やかに、差し込んでいる。
私は、家事を、ひと段落させて、ベランダの洗濯物を、ぼんやりと、眺めていた。
静かだ・・・・・
かつては、子どもたちの笑い声や、足音が、あふれていたこの部屋。
サトルがリクを追いかけまわして、
リクが、わっと、泣いて、
私が二人を、叱って・・・・
あんなに、うるさかったのに。
今は、沈黙だけが、満ちていた。
長男のサトルは、大学を卒業し、自然農の道へ、進んだ。
全国の農家を巡り、今では、独立を目指している。
時々、スマホに写真が届く。
「見て、カルガモ農法の田んぼ!」
泥だらけの顔で、笑っている。
どの写真も、生き生きと、していた。
次男のリクは、全寮制の学校に、進んだ。
帰省するたび、がっしりとした肩幅と、凛としたまなざしが、頼もしい。
かつての、甘えん坊の面影は、すっかり、消えていた。
子どもたちは、それぞれの道を、歩き出した。
それは、喜ばしいこと、のはずだった。
でも、私は、戸惑っていた。
朝、目が覚めても、「お母さん」と、呼ぶ声が、しない。
お弁当を、作らなくていい。
夕食の時間を、気にしなくていい。
自由なはずなのに。
ずっと、欲しかった、自分の時間のはずなのに。
私は、その時間の、使い方が、わからなかった。
その日、私は、スーパーへ、買い物に、行った。
かごに、入れる食材が、ふと、少ないことに、気づく。
一人分の、野菜。
一人分の、魚。
大盛りのカレーを、作ることも、
唐揚げを、山ほど、揚げることも、
もう、ない。
たくさん、食べてくれる人が、家にいなくなった。
レジへ向かおうとしたその時、
私の足は、無意識にお菓子売り場の前で、止まっていた。
こういう時が、いちばん、危ない。
孤独と空白。
それは、あの頃の私を、いつも、“あの場所”へ、引き戻す引き金だった。
子育てという、忙しさが、これまでは、私を、守ってくれていた。
食卓の「いただきます」が、私の、薬だった。
でも、その薬が今、手元から、消えていた。
棚に並ぶ甘いものを、見つめる。
かごを持つ手に力が、入る。
「一つくらい、いいじゃない、どうせ今夜も、一人なんだから。」
心の中で、聞き慣れた声が、囁く。
気づけば、私は、カートに、いくつも、いくつも、いくつも、お菓子を、
放り込んでいた。
その夜。
私は、テレビを、つけた。
昔と、同じだった。
何も考えなくて、いい番組。どうでもいい、バラエティー。
画面の向こうで、誰かが、笑っている。
見たいわけじゃ、なかった。
これから始める行為から、目を、そらすためだった。
音と、光で、意識を、埋める。
そうして、私は、お菓子を、口に、運び始めた。
甘さが、舌に、広がる。
頭の中が、ふっと、軽くなる。
一つ、口に入れると、止まらなかった。
二つ、三つ。手が、勝手に、動く。
テレビの、笑い声。
包み紙を、破る音。
咀嚼する音。
その音に、まぎれて、私は、自分が、今、何をしているのかを、見ないで、済んでいた。
いつものように。あの頃と、同じように。
どれくらい、そうしていただろう。
ふと、顔を、上げた。
開けっぱなしにしていた、窓。
その外の景色が、いつのまにか、すっかり、暗くなっていた。
暗くなった窓ガラスは、鏡のように、部屋の中を、映し出していた。
そこに、一人の女が、いた。
薄暗い部屋で、背中を丸めて、お菓子を、次から次へと、口に、詰め込んでいる。
髪を、振り乱して。
頬を、ふくらませて。
何かに、取り憑かれたように。
誰なんだ、この人は?
一瞬、それが、自分だと、わからなかった。
テレビは、ずっと、私の姿を、隠してくれていた。
音と光で、目隠しをして、この、化け物のような行為を、なかったことに、してくれていた。
でも、窓は、違った。
誤魔化しの、きかない、ただの、ガラス。
それは、私が、ずっと、見ないようにしてきたものを、ありのまま、映し出した。
こんなに、みじめな姿を、していたのか。
こんなに、すさまじいことを、私はしていたのか。
初めて、見た気がした。
自分が、ずっと、していたことの、本当の姿を。
私は、手を、止めた。
もう、テレビの音は、耳に、入ってこなかった。
食べかけの、お菓子。
散らかった、包み紙。
そして、窓に映る、自分。
いつもなら、ここから、トイレへ、向かうはずだった。
吐いて、全部、なかったことにするために。
でも、私は、立ち上がらなかった。
もう、誤魔化せない。
そう、思った。
食べすぎた、気持ち悪さも。
自分への、情けなさも。
そして、ずっと、目を、そらしてきた、自分の本当の姿も。
いよいよ、私は、それと、向き合わなければ、いけない。
そんな、予感がした。
私は、散らかった包み紙を、一つずつ、拾い集めた。
そして、テーブルの上の、アルバムを、開いた。
さっきまで、整理していた、子どもたちの、写真。
サトルが、初めて、補助輪なしの自転車に、乗れた日。
私が、手を離すと、危なっかしく、でも、まっすぐ、進んでいった、あの小さな背中。
リクが、初めて、つかまり立ちから、手を離して、立った瞬間。
よろよろと、二歩、歩いて、私の胸に、飛び込んできた、あの重み。
三人で、海に、行った日。
波打ち際で、二人が、水を、掛け合って、はしゃいでいた、あの笑い声。
その写真の中の、私は、笑っていた。
心から、笑っていた。
私は、あの子たちを、育て上げた。
あんな夜を、抱えながら、それでも、ちゃんと、育て上げた。
アルバムの、いちばん奥に、私の、高校時代の写真が、あった。
体型に悩み、摂食障害に、苦しんでいた頃の、私。
目の奥が、笑っていない、少女。
その少女と、今の私が、静かに、目を合わせる。
三度の結婚と、離婚。
カフェの、失敗。
女手一つの、子育て。
たくさん、間違えた。
たくさん、転んだ。
でも、二人の息子を、なんとか、一人前に、育て上げた。
それは、誇っていい、はずだった。
なのに・・・・
胸の穴は、埋まらなかった。
「母親」という、役割。
それが、私の、すべてだった。
それが、なくなった今、私は、自分が、空っぽの、抜け殻のように、思えた。
誰かに、「あなたが、必要だ」と、言ってほしくて、たまらなかった。
その渇きが、静かに、私の中で、大きくなっていく。
私は、まだ、気づいていなかった。
その渇きこそが、次の、間違いへと、私を、引きずり込んでいく、入り口だったことを。
私は3度離婚した。第6回
摂食障害連載小説

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