私は3度離婚した。第6回

摂食障害連載小説


子育てが、終わった。

そのことに、私が、本当の意味で、気づいたのは、ある休日の、午後だった。
午後の陽射しが、緩やかに、差し込んでいる。
私は、家事を、ひと段落させて、ベランダの洗濯物を、ぼんやりと、眺めていた。

静かだ・・・・・

かつては、子どもたちの笑い声や、足音が、あふれていたこの部屋。
サトルがリクを追いかけまわして、
リクが、わっと、泣いて、
私が二人を、叱って・・・・
あんなに、うるさかったのに。
今は、沈黙だけが、満ちていた。

長男のサトルは、大学を卒業し、自然農の道へ、進んだ。
全国の農家を巡り、今では、独立を目指している。
時々、スマホに写真が届く。

「見て、カルガモ農法の田んぼ!」

泥だらけの顔で、笑っている。
どの写真も、生き生きと、していた。

次男のリクは、全寮制の学校に、進んだ。
帰省するたび、がっしりとした肩幅と、凛としたまなざしが、頼もしい。
かつての、甘えん坊の面影は、すっかり、消えていた。
子どもたちは、それぞれの道を、歩き出した。
それは、喜ばしいこと、のはずだった。

でも、私は、戸惑っていた。
朝、目が覚めても、「お母さん」と、呼ぶ声が、しない。
お弁当を、作らなくていい。
夕食の時間を、気にしなくていい。
自由なはずなのに。
ずっと、欲しかった、自分の時間のはずなのに。
私は、その時間の、使い方が、わからなかった。

その日、私は、スーパーへ、買い物に、行った。
かごに、入れる食材が、ふと、少ないことに、気づく。
一人分の、野菜。
一人分の、魚。
大盛りのカレーを、作ることも、
唐揚げを、山ほど、揚げることも、
もう、ない。
たくさん、食べてくれる人が、家にいなくなった。
レジへ向かおうとしたその時、
私の足は、無意識にお菓子売り場の前で、止まっていた。

こういう時が、いちばん、危ない。
孤独と空白。
それは、あの頃の私を、いつも、“あの場所”へ、引き戻す引き金だった。

子育てという、忙しさが、これまでは、私を、守ってくれていた。
食卓の「いただきます」が、私の、薬だった。
でも、その薬が今、手元から、消えていた。
棚に並ぶ甘いものを、見つめる。
かごを持つ手に力が、入る。

「一つくらい、いいじゃない、どうせ今夜も、一人なんだから。」

心の中で、聞き慣れた声が、囁く。
気づけば、私は、カートに、いくつも、いくつも、いくつも、お菓子を、
放り込んでいた。

その夜。
私は、テレビを、つけた。
昔と、同じだった。
何も考えなくて、いい番組。どうでもいい、バラエティー。
画面の向こうで、誰かが、笑っている。
見たいわけじゃ、なかった。
これから始める行為から、目を、そらすためだった。
音と、光で、意識を、埋める。
そうして、私は、お菓子を、口に、運び始めた。
甘さが、舌に、広がる。
頭の中が、ふっと、軽くなる。

一つ、口に入れると、止まらなかった。
二つ、三つ。手が、勝手に、動く。
テレビの、笑い声。
包み紙を、破る音。
咀嚼する音。

その音に、まぎれて、私は、自分が、今、何をしているのかを、見ないで、済んでいた。
いつものように。あの頃と、同じように。

どれくらい、そうしていただろう。
ふと、顔を、上げた。
開けっぱなしにしていた、窓。
その外の景色が、いつのまにか、すっかり、暗くなっていた。
暗くなった窓ガラスは、鏡のように、部屋の中を、映し出していた。

そこに、一人の女が、いた。
薄暗い部屋で、背中を丸めて、お菓子を、次から次へと、口に、詰め込んでいる。
髪を、振り乱して。
頬を、ふくらませて。
何かに、取り憑かれたように。

誰なんだ、この人は?
一瞬、それが、自分だと、わからなかった。

テレビは、ずっと、私の姿を、隠してくれていた。
音と光で、目隠しをして、この、化け物のような行為を、なかったことに、してくれていた。
でも、窓は、違った。
誤魔化しの、きかない、ただの、ガラス。
それは、私が、ずっと、見ないようにしてきたものを、ありのまま、映し出した。
こんなに、みじめな姿を、していたのか。
こんなに、すさまじいことを、私はしていたのか。
初めて、見た気がした。
自分が、ずっと、していたことの、本当の姿を。

私は、手を、止めた。
もう、テレビの音は、耳に、入ってこなかった。

食べかけの、お菓子。
散らかった、包み紙。
そして、窓に映る、自分。
いつもなら、ここから、トイレへ、向かうはずだった。
吐いて、全部、なかったことにするために。

でも、私は、立ち上がらなかった。
もう、誤魔化せない。
そう、思った。
食べすぎた、気持ち悪さも。
自分への、情けなさも。
そして、ずっと、目を、そらしてきた、自分の本当の姿も。
いよいよ、私は、それと、向き合わなければ、いけない。
そんな、予感がした。

私は、散らかった包み紙を、一つずつ、拾い集めた。
そして、テーブルの上の、アルバムを、開いた。

さっきまで、整理していた、子どもたちの、写真。
サトルが、初めて、補助輪なしの自転車に、乗れた日。
私が、手を離すと、危なっかしく、でも、まっすぐ、進んでいった、あの小さな背中。
リクが、初めて、つかまり立ちから、手を離して、立った瞬間。
よろよろと、二歩、歩いて、私の胸に、飛び込んできた、あの重み。
三人で、海に、行った日。
波打ち際で、二人が、水を、掛け合って、はしゃいでいた、あの笑い声。
その写真の中の、私は、笑っていた。
心から、笑っていた。
私は、あの子たちを、育て上げた。
あんな夜を、抱えながら、それでも、ちゃんと、育て上げた。

アルバムの、いちばん奥に、私の、高校時代の写真が、あった。
体型に悩み、摂食障害に、苦しんでいた頃の、私。
目の奥が、笑っていない、少女。
その少女と、今の私が、静かに、目を合わせる。

三度の結婚と、離婚。
カフェの、失敗。
女手一つの、子育て。
たくさん、間違えた。
たくさん、転んだ。
でも、二人の息子を、なんとか、一人前に、育て上げた。
それは、誇っていい、はずだった。

なのに・・・・
胸の穴は、埋まらなかった。
「母親」という、役割。
それが、私の、すべてだった。

それが、なくなった今、私は、自分が、空っぽの、抜け殻のように、思えた。
誰かに、「あなたが、必要だ」と、言ってほしくて、たまらなかった。
その渇きが、静かに、私の中で、大きくなっていく。
私は、まだ、気づいていなかった。
その渇きこそが、次の、間違いへと、私を、引きずり込んでいく、入り口だったことを。

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