私は3度離婚した。第5話

摂食障害連載小説

店を辞め、私は、ハローワークに、向かった。

求人票を、見ながら、私が探したのは、たった一つの条件だった。
家から近い。
定時で、帰れる。

職務経歴書には、正直に、書いた。

「家族の時間を大切にしたいです」

面接でも、背伸びせずに、そう伝えた。
「お子さんのこと、大変ですよね」
そう言ってくれた家から二駅の、小さな不動産会社が、私を採用してくれた。

宅建の資格は、ここで、ようやく、本当の意味で、活かされた。
毎朝、お弁当を、作る。
夜は、家族で、夕食を、囲む。
休日は、子どもたちと、近くの公園に、出かける。
そんな、当たり前の暮らしが、こんなにも、温かいものだったとは、知らなかった。

職場には、最悪の上司と、陰湿な女性社員が、いた。
私に、何かと、当たってくる上司。
入ったばかり私に何も教えない女性社員。
以前の私だったら、たぶん、心が、潰れていた。

でも、今は、不思議なほど、平穏だった。
彼らの陰口も、ミスのなすりつけも、私にとっては、
もう、”どうでもいいこと”だった。

なぜなら、私には、はっきりと、わかっていたから。
帰る家が、ある。
守るべき人たちが、いる。

それだけが、私の、本当の現実だった。
職場の人間関係は、私の人生の、ほんの一部にすぎない。
私の人生の中心は、夕方、家のドアを開けた瞬間に、はじまる。

「ただいま」
「おかえりー!」
子どもたちの声が、玄関に響く。
その瞬間、今日頑張ってよかったと思える。

夕食の時間。
子どもたちと、食卓を、囲む。
私は、お皿の上の料理を、ひとくち、口に運ぶ。
そのたびに、頭の中で、勝手に、カロリーが、計算されていく。

ご飯一杯、何キロカロリー。
唐揚げ一つ、何キロカロリー。
味噌汁の油揚げ、何キロカロリー。
モヤモヤ、する。

食卓を、立って、トイレに行きたくなる衝動が、頭の中を、よぎる。
昔のように、水をがぶ飲みして、指を、喉に入れる。
あの儀式は、まだ、私の体が、覚えていた。

でも、私は、立たなかった。
立てなかった、のではない。
立たない、ことを、選んだ。
この時間の中から、途中退席、したくなかった、から。

目の前で、長男が、弟をからかいながら、ご飯を、食べている。
次男が、口の周りに、ソースをつけて、笑っている。

この時間を、守ることのほうが、何よりも大切だった。

モヤモヤしたまま、ご飯を、最後まで、食べきった。
「ごちそうさま」
子どもたちと、声を、揃えた。

その瞬間、気づいた。
過食嘔吐には、「いただきます」も、「ごちそうさま」も、なかった。

誰も、声を、かけ合わなかった。
あれは、人とのつながりが、すべて、欠落した、儀式だった。

家族とは、何だろう。
ふと、考えた。
血が、つながっていること?
同じ家に、住んでいること?
たぶん、違う。
同じ家にいても、声を、掛け合わなければ、人は、寂しい。

「ただいま」
「おかえり」
「いただきます」
「ごちそうさま」
「いってきます」
「いってらっしゃい」

繰り返し、言う、言葉。
同じタイミングで、掛け合う、言葉。
これらの、挨拶こそが、家族の、形だったのかもしれない。

私の実家には、これらの挨拶が、なかった。
父は、怒ることで、家族と、コミュニケーションを、とる人だった。
不器用、だったのだ。
怒鳴られたくないから、私たちは、父と顔を合わせる時間を、ずらして、生活していた。
同じ屋根の下に、住んでいるのに、私たちは、別々の、時間を、生きていた。

「ただいま」も、「いただきます」も、「ごちそうさま」も、なかった。
声の、掛け合いが、なかった。
だから、同じ家に、いたのに、私は、いつも、ひとりだった。

いま、私は、子どもたちと、声を掛け合う。
その繰り返しが、私たちを、家族に、しているのだ。

それが、今の、私の、回復の形だった。

でも、私は、わかっていた。
この、ぎりぎりの均衡が、いつまで、続くか、わからない。
危うい、状態だった。

今の日常が無くなった瞬間に、
私は、また、トイレの、便器の前に、立つかもしれない。

だから、私は、必死で、この日常を、守った。
子どもたちとの、食卓。
「ただいま」と、「おかえり」。
当たり前の、夜。
これらが、私の、薬だった。

何年か、そんな日々が、続いた。
子どもたちは、ぐんぐん、大きくなっていった。
長男は、思春期に入り、口数が、少しずつ、減っていった。
でも、夕食の時には、いつものように、弟をからかい、私に、その日の話を、してくれた。
次男は、相変わらず、甘えん坊だったけれど、
学校の友達と、外で遊ぶ時間が、少しずつ、増えていった。

ある日、長男が、大学の合格通知を、持って帰ってきた。
「お母さん、受かったわ」
「えっ、本当?」
「うん。他府県の、◯◯大学」

私は、嬉しさと、寂しさが、同時に、込み上げた。
(この子は、もう、家を、出ていくんだ)

長男は、ひとり暮らしの、準備を始めた。
部屋を、片付ける。
要らない服を、捨てる。
小さい頃から大事にしていた本を、ダンボールに詰めていた。
その背中を、私は、廊下から、そっと、見ていた。

ふと、長男が、振り向いた。
「お母さん、何?」
「ううん。何でもない」
「変な顔してるで」

私は、笑った。
そして、少しだけ、泣きそうになった。

長男が、家を出る日。
玄関で、私は、長男に、言った。
「ありがとう」
長男は、一瞬、不思議そうな顔をした。
「何が?」

私は、たくさんのことを、伝えたかった。
次男の学校からの電話の夜、「ギリギリセーフやな」と言ってくれたこと。
弟に、お父さん役と、お母さん役を、両方やってくれたこと。
私が、見ていなかった時、家を守ってくれたこと。
でも、口に出すと、長男は、照れてしまうかもしれない。

だから、私は、こう、言った。
「いってらっしゃい」
長男は、ふっと、笑って、言った。
「いってきます」

ドアが、閉まる音。
私は、しばらく、玄関で、動けなかった。

その夜、次男と、二人だけの、夕食。
「お兄ちゃん、もういないんか」
「うん。いないね」
「寂しいな」
「寂しいね」

私たちは、しばらく、静かに、ご飯を、食べた。

次男は、それから、少しずつ、家にいる時間が、減っていった。
部活、友達、ゲーム、塾
次男は、自分の世界を、広げ始めていた。

そして、ある日、
私は、ふと、気がついた。

(あれ?)
(子育てって、もしかして、一段落、した?)

家のドアを開けても、次男は、まだ、帰っていないことが、増えていた。
夕食を、ひとりで、食べる夜も、出てきた。

最初は、寂しさと、少しの、安心が、胸の中で、揺れた。
子育てが、終わっていく。
その事実を、受け入れるのに、私は、しばらく、時間が、かかった。

ある夜、ベランダで、月を、見上げた。
「母親一段落?」
そう、つぶやいた。

家を、守ること。
子どもを、育てること。
ただいま、と言える場所を、作ること。
気がつけば、それを、なんとかやり遂げていた。

長男は、他府県で、ひとり暮らしを始めている。
次男は、自分の世界を、楽しんでいる。
私は、母として、もう、十分に、役目を、果たしたのかもしれない。

その時、私は、ふと、思った。
じゃあ、私は、これから、何のために、生きていくんだろう。

答えが、出そうで、出なかった。
「自分のため」
という言葉が、頭の中を、よぎった。
でも、その言葉は、私の中で、ふわふわと、宙に浮いていた。
どこにも、着地しなかった。

「私は、私のために、生きていいの?」
そう、自分に、問いかけてみた。
答えは、出なかった。

「自分のために、生きる」
その言葉の意味が、私には、わからなかった。
夢を持ち、経営も立ち行かず家庭を犠牲にした罪悪感が
自分のために生きることを許さなかった。

それからは、子供のためにしか、生きられない、女だった。
だから、誰かが、必要だった。
誰かが、いてくれないと、私は、生きる理由を、持てなかった。

その時、私は、まだ、気がついていなかった。
その思い込みこそが
私の、本当の、鎖だったということを。

子育てが、終わった私の心に、ぽっかりと、穴が、開いていた。
その穴を、埋めるために
私は、また、間違った場所に、手を、伸ばすことになる。

コメント

タイトルとURLをコピーしました