店を辞め、私は、ハローワークに、向かった。
求人票を、見ながら、私が探したのは、たった一つの条件だった。
家から近い。
定時で、帰れる。
職務経歴書には、正直に、書いた。
「家族の時間を大切にしたいです」
面接でも、背伸びせずに、そう伝えた。
「お子さんのこと、大変ですよね」
そう言ってくれた家から二駅の、小さな不動産会社が、私を採用してくれた。
宅建の資格は、ここで、ようやく、本当の意味で、活かされた。
毎朝、お弁当を、作る。
夜は、家族で、夕食を、囲む。
休日は、子どもたちと、近くの公園に、出かける。
そんな、当たり前の暮らしが、こんなにも、温かいものだったとは、知らなかった。
職場には、最悪の上司と、陰湿な女性社員が、いた。
私に、何かと、当たってくる上司。
入ったばかり私に何も教えない女性社員。
以前の私だったら、たぶん、心が、潰れていた。
でも、今は、不思議なほど、平穏だった。
彼らの陰口も、ミスのなすりつけも、私にとっては、
もう、”どうでもいいこと”だった。
なぜなら、私には、はっきりと、わかっていたから。
帰る家が、ある。
守るべき人たちが、いる。
それだけが、私の、本当の現実だった。
職場の人間関係は、私の人生の、ほんの一部にすぎない。
私の人生の中心は、夕方、家のドアを開けた瞬間に、はじまる。
「ただいま」
「おかえりー!」
子どもたちの声が、玄関に響く。
その瞬間、今日頑張ってよかったと思える。
夕食の時間。
子どもたちと、食卓を、囲む。
私は、お皿の上の料理を、ひとくち、口に運ぶ。
そのたびに、頭の中で、勝手に、カロリーが、計算されていく。
ご飯一杯、何キロカロリー。
唐揚げ一つ、何キロカロリー。
味噌汁の油揚げ、何キロカロリー。
モヤモヤ、する。
食卓を、立って、トイレに行きたくなる衝動が、頭の中を、よぎる。
昔のように、水をがぶ飲みして、指を、喉に入れる。
あの儀式は、まだ、私の体が、覚えていた。
でも、私は、立たなかった。
立てなかった、のではない。
立たない、ことを、選んだ。
この時間の中から、途中退席、したくなかった、から。
目の前で、長男が、弟をからかいながら、ご飯を、食べている。
次男が、口の周りに、ソースをつけて、笑っている。
この時間を、守ることのほうが、何よりも大切だった。
モヤモヤしたまま、ご飯を、最後まで、食べきった。
「ごちそうさま」
子どもたちと、声を、揃えた。
その瞬間、気づいた。
過食嘔吐には、「いただきます」も、「ごちそうさま」も、なかった。
誰も、声を、かけ合わなかった。
あれは、人とのつながりが、すべて、欠落した、儀式だった。
家族とは、何だろう。
ふと、考えた。
血が、つながっていること?
同じ家に、住んでいること?
たぶん、違う。
同じ家にいても、声を、掛け合わなければ、人は、寂しい。
「ただいま」
「おかえり」
「いただきます」
「ごちそうさま」
「いってきます」
「いってらっしゃい」
繰り返し、言う、言葉。
同じタイミングで、掛け合う、言葉。
これらの、挨拶こそが、家族の、形だったのかもしれない。
私の実家には、これらの挨拶が、なかった。
父は、怒ることで、家族と、コミュニケーションを、とる人だった。
不器用、だったのだ。
怒鳴られたくないから、私たちは、父と顔を合わせる時間を、ずらして、生活していた。
同じ屋根の下に、住んでいるのに、私たちは、別々の、時間を、生きていた。
「ただいま」も、「いただきます」も、「ごちそうさま」も、なかった。
声の、掛け合いが、なかった。
だから、同じ家に、いたのに、私は、いつも、ひとりだった。
いま、私は、子どもたちと、声を掛け合う。
その繰り返しが、私たちを、家族に、しているのだ。
それが、今の、私の、回復の形だった。
でも、私は、わかっていた。
この、ぎりぎりの均衡が、いつまで、続くか、わからない。
危うい、状態だった。
今の日常が無くなった瞬間に、
私は、また、トイレの、便器の前に、立つかもしれない。
だから、私は、必死で、この日常を、守った。
子どもたちとの、食卓。
「ただいま」と、「おかえり」。
当たり前の、夜。
これらが、私の、薬だった。
何年か、そんな日々が、続いた。
子どもたちは、ぐんぐん、大きくなっていった。
長男は、思春期に入り、口数が、少しずつ、減っていった。
でも、夕食の時には、いつものように、弟をからかい、私に、その日の話を、してくれた。
次男は、相変わらず、甘えん坊だったけれど、
学校の友達と、外で遊ぶ時間が、少しずつ、増えていった。
ある日、長男が、大学の合格通知を、持って帰ってきた。
「お母さん、受かったわ」
「えっ、本当?」
「うん。他府県の、◯◯大学」
私は、嬉しさと、寂しさが、同時に、込み上げた。
(この子は、もう、家を、出ていくんだ)
長男は、ひとり暮らしの、準備を始めた。
部屋を、片付ける。
要らない服を、捨てる。
小さい頃から大事にしていた本を、ダンボールに詰めていた。
その背中を、私は、廊下から、そっと、見ていた。
ふと、長男が、振り向いた。
「お母さん、何?」
「ううん。何でもない」
「変な顔してるで」
私は、笑った。
そして、少しだけ、泣きそうになった。
長男が、家を出る日。
玄関で、私は、長男に、言った。
「ありがとう」
長男は、一瞬、不思議そうな顔をした。
「何が?」
私は、たくさんのことを、伝えたかった。
次男の学校からの電話の夜、「ギリギリセーフやな」と言ってくれたこと。
弟に、お父さん役と、お母さん役を、両方やってくれたこと。
私が、見ていなかった時、家を守ってくれたこと。
でも、口に出すと、長男は、照れてしまうかもしれない。
だから、私は、こう、言った。
「いってらっしゃい」
長男は、ふっと、笑って、言った。
「いってきます」
ドアが、閉まる音。
私は、しばらく、玄関で、動けなかった。
その夜、次男と、二人だけの、夕食。
「お兄ちゃん、もういないんか」
「うん。いないね」
「寂しいな」
「寂しいね」
私たちは、しばらく、静かに、ご飯を、食べた。
次男は、それから、少しずつ、家にいる時間が、減っていった。
部活、友達、ゲーム、塾
次男は、自分の世界を、広げ始めていた。
そして、ある日、
私は、ふと、気がついた。
(あれ?)
(子育てって、もしかして、一段落、した?)
家のドアを開けても、次男は、まだ、帰っていないことが、増えていた。
夕食を、ひとりで、食べる夜も、出てきた。
最初は、寂しさと、少しの、安心が、胸の中で、揺れた。
子育てが、終わっていく。
その事実を、受け入れるのに、私は、しばらく、時間が、かかった。
ある夜、ベランダで、月を、見上げた。
「母親一段落?」
そう、つぶやいた。
家を、守ること。
子どもを、育てること。
ただいま、と言える場所を、作ること。
気がつけば、それを、なんとかやり遂げていた。
長男は、他府県で、ひとり暮らしを始めている。
次男は、自分の世界を、楽しんでいる。
私は、母として、もう、十分に、役目を、果たしたのかもしれない。
その時、私は、ふと、思った。
じゃあ、私は、これから、何のために、生きていくんだろう。
答えが、出そうで、出なかった。
「自分のため」
という言葉が、頭の中を、よぎった。
でも、その言葉は、私の中で、ふわふわと、宙に浮いていた。
どこにも、着地しなかった。
「私は、私のために、生きていいの?」
そう、自分に、問いかけてみた。
答えは、出なかった。
「自分のために、生きる」
その言葉の意味が、私には、わからなかった。
夢を持ち、経営も立ち行かず家庭を犠牲にした罪悪感が
自分のために生きることを許さなかった。
それからは、子供のためにしか、生きられない、女だった。
だから、誰かが、必要だった。
誰かが、いてくれないと、私は、生きる理由を、持てなかった。
その時、私は、まだ、気がついていなかった。
その思い込みこそが
私の、本当の、鎖だったということを。
子育てが、終わった私の心に、ぽっかりと、穴が、開いていた。
その穴を、埋めるために
私は、また、間違った場所に、手を、伸ばすことになる。


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