道徳の交通事故──「子を捨てた母」が「優しい母」に脳内変換されるとき

心のケア

世の中には、感動的に語られるけれど、なぜか胸の奥に違和感が残る話があります。
誰かが強く非難されるわけでもなく、争いが起きるわけでもない。
それでも、聞き終えたあとに「何かおかしい」と感じてしまう。

私はこうした状態を、「道徳の交通事故」と呼んでいます。
表面上は静かで穏やかでも、その裏側で倫理がねじれ、誰かの感情や尊厳が踏み潰されている状態です。

「子を捨てた母」と「優しい母」という二つの顔

ある家庭の話です。
母親は、配偶者以外の男性との関係を理由に、幼い子どもを残して家を出ました。
その後、再婚し、新しい家庭を築き、別の子どもを育てて生きてきました。

一方、置き去りにされた子どもは父親に育てられ、大人になります。
母親について父親は多くを語らず、家庭には「聞いてはいけない空気」が流れていました。

その沈黙の中で、子どもは次第に母親についてこう考えるようになります。

「お母さんは優しい人だった」
「事情があっただけなんだ」

ここで、奇妙な現象が起こります。
「子を捨てた」という事実は消えていないのに、「優しい母」という評価だけが前面に出てくるのです。

事実は変わらず、意味だけが書き換えられる

このようなとき、人の心の中では脳内変換が起きています。
現実を否定するのではなく、意味づけだけを都合よく書き換える働きです。

子を捨てたという行為は、そのまま残っている。
けれど、

・事情があった
・悪意はなかった
・もう過去のこと

といった解釈が積み重なり、行為の重さや結果が曖昧にされていきます。

脳内変換は、冷酷さから生まれるとは限りません。
むしろ、向き合うには苦しすぎる現実から目を逸らすための防衛反応として起こることが多いのです。

道徳の交通事故が起きる瞬間

「優しい母」という物語が成立した瞬間、道徳の交通事故は完成します。

・捨てられた子どもの感情は語られない
・責任の所在は曖昧になる
・違和感を覚える側が、心の狭い人のように扱われる

こうして、問いを持つ権利そのものが消えていきます。
声にならなかった怒りや悲しみは、きれいな物語の下に押し込められていきます。

違和感を覚える人は間違っていない

このような話に強い嫌悪感を覚える人がいます。
「それは美談にしてはいけない」と感じる人です。

その感覚は、冷たさでも意地悪でもありません。
むしろ、倫理感覚がまだ正常に働いている証拠です。

親には親としての責任がある。
子どもには選べなかった人生がある。
その二つを同時に考えられるからこそ、安易な物語化に耐えられないのです。

道徳の交通事故に出会ったときの距離の取り方

もしあなたが、
「いい話のはずなのに、どうしても納得できない」
そう感じたことがあるなら、無理に理解しようとしなくていい。

共感しなくていい。
受け入れなくていい。
その場から距離を取っていい。

違和感は、あなたの心が壊れていないというサインです。

おわりに

世の中は、ときどき「優しい物語」を作るために、誰かに痛みを与えます。
そのとき、何が脳内で変換され、何が置き去りにされているのか。
一度、立ち止まって考えてみてほしいと思います。

「本当の気持ちに向き合ってもいいのでは」と言いたくなる場面もあります。
けれど、その人にはまだ、その準備ができていないこともある。
だからこそ、無理に言葉を投げず、距離を保つという選択もまた、ひとつの誠実さなのだと思います。

道徳の交通事故は、派手な音を立てません。
だからこそ、気づいた人が自分の感覚を疑わずにいることが大切なのだと思います。

コメント

タイトルとURLをコピーしました