「大丈夫、俺がいるから。」
見合いの席で、彼は、そう言った。 その一言だけで、私は、少しだけ、息が吸えた気がした。
最初の夫は、”優しさ”という仮面をつけて、私の前に現れた。
父に紹介され、父の会社の関連会社に、役職まで用意されていた。
車も、父が与えたものだった。
すべて「父の息がかかった場所」で守られていた彼は、自分で何かを築く努力をしたことのない人だった。
結婚が決まった日、彼は言った。
「お義父さんに、ちゃんと恩返ししないとな。俺、頑張るから。」
その「頑張るから」が、誰のための言葉なのか、私はまだ、気づいていなかった。
結婚と同時に、仮面は、少しずつ、剥がれていった。
新婚生活が始まって、ひと月も経たないうちに、彼の口数は減った。
代わりに増えたのは、ため息だった。
「はあ……。」
理由を聞いても、答えない。
「別に。」
その一言だけを残して、彼はテレビをつけた。
食事の味付けが、少し濃かった日。
「これ、しょっぱくない?」
料理を、一口で置いた。
「ごめん、次は気をつける。」
「別に、いいよ。お前、俺と結婚できただけで、上出来だろ。」
「……どういう意味。」
「お前、親のコネがなかったら、誰にも見向きもされてないだろ、って言ってんの。」
その言葉を、彼は、何かにつけて使った。
皮肉なことに、それは、彼自身のことだった。
父のコネで、会社の関連会社に役職を用意され、車まで与えられた彼こそが、誰かの力がなければ、何も持っていない人だった。
欲しいものを手に入れた彼にとって、私という存在は、もう”配慮”の対象ではなくなっていた。
ある夜、些細なことで、私が言い返した。 彼の顔つきが、変わった。
「お前、誰に向かって口きいてんの。」
「……」
「お前の顔、見てるとさ。」
彼は、そこで言葉を切った。 そして、吐き捨てるように、続けた。
「義父さんのこと、思い出すんだよ。気分悪い。」
その言葉に、私は、何も返せなかった。
義父の前では、彼は、別人になった。
「はい」「おっしゃる通りです」「勉強になります」
父が何を言っても、彼は、ただ、頷くだけだった。
反論することも、意見することも、一度も、なかった。
宴席で、父が冗談交じりに、彼をからかったことがあった。
「お前は、俺が拾ってやらなきゃ、今頃どうなってたか、わからんな。」
彼は、笑って、頭を下げるしかなかった。
「本当に、お世話になってます。」
その帰り道、車の中で、彼は、一言も、喋らなかった。
そして、家に着いた途端、玄関で、私に、当たった。
「お前の顔見てると、イライラすんだよ。」
義父には、何一つ、言い返せない。
その萎縮と屈辱を、彼は、家の中でだけ、私にぶつけた。
会社でも、家でも、彼は「社長の娘婿」としてしか見られていなかった。
それを、誰よりも、彼自身が、一番、わかっていた。
そのことを、決定的に、思い知らされた夜があった。
「会社の付き合いで、飲み会。遅くなる。」
そう言って出かけた彼が、深夜、酔って帰ってきた。
翌朝、洗濯をしようと、彼のズボンのポケットを探ると、一枚の名刺が出てきた。
スナックの名刺だった。
可愛らしい丸文字で、端に、こう書き添えられていた。
「未来の社長さんへ また来てね。」
彼は、会社でも、私の父の前でも、一度も、そんな肩書きを名乗ったことはなかった。 でも、水商売の女の子の前でだけ、彼は、「大きな会社の実の息子」を名乗っていたのだった。
自分の力では、何も持っていない人が、 自分の力で、何も築いたことのない人が、 誰かに「すごい」と言われたくて、見栄を、重ねていた。
私は、その名刺を、しばらく、見つめていた。
怒りよりも先に、乾いた笑いが、こみ上げてきた。
(この人は、誰かに認められることでしか、自分を保てないんだ)
私は、夫のサンドバッグだった。
毎日、家事をして、彼の機嫌を、取り続けた。
「今日、何もしてないだろ、お前。」
一日中、家のことをしていても、彼にとって、それは「何もしていない」ことだった。
「じゃあ、私、何をすればいいの。」
「知らねえよ、そんなの。俺に聞くなよ。」
会話は、いつも、そこで終わった。
心は、じわじわと、摩耗していった。
夜、彼が寝静まったあとの静けさが、一番怖かった。 冷たく、重く、抜け出せない闇。ドロドロとした黒い煙が、私を包み込む。
その煙は、やがて、黒い鎖に変わり、私の体に、絡みつくように巻き付いた。
息ができない。 明日も、その次も、その次も、この日々が続いていく。
婿養子の彼は唯一の役割を果たした。
妊娠が、わかった日のことを、今もよく覚えている。
検査薬の線が、二本。その線を、私は何度も見直した。
「どうしよう。」
それが、第一声だった。喜びでもなく、感動でもなく、「どうしよう」だった。
恐怖しか、湧かなかった。こんな私が、母親になれるのだろうか。
彼に、報告した夜。
「できたみたい。」
彼は、テレビから目を離さずに、こう言った。
「あ、そう。」
それだけだった。
「……それだけ?」
「何、他に何て言えばいいんだよ。」
私は、その夜、静かに、涙をこぼした。
つわりが始まった。過食嘔吐が、楽になった。 ちょうどいい。吐きやすくなった。 このまま、毎晩の儀式を、続けるつもりだった。
ある夜、いつものように食べて、一日の終わりの儀式を始めた。 吐くときは、お腹を押す。両手で、ぎゅっと、押し込む。
その瞬間だった。
「やめてぇぇ!」
お腹の奥から、声が聞こえた気がした。錯覚だったのかもしれない。でも、私には確かに聞こえた。
「ごめん……。」 「ごめんね……。」
私は、便器の前で崩れ落ちた。声を殺して、泣いた。
この時、初めて、お腹の中に命があることを、実感した。 この子は、今、私の声を聞いているのだろうか。どんな顔をしているのだろう。
会える日を想像すると、胸が、少し温かくなった。それでも、不安のほうが大きかった。
今まで繰り返してきた過食嘔吐で、この子に何か、取り返しのつかない影響を与えてしまったのではないか。 私は、この子を育てていいのだろうか。
でも、一つだけ、確かなことがあった。
親の支配から出なければ、この子も、私と同じ鎖につながれてしまう。
それだけは、絶対に、嫌だった。
私は、家を出ると決めた。
ゾウは、もう一頭のゾウを背負うことになったとき、初めて、鎖を切ろうとするのかもしれない。
けれど、決めたからといって、急に強くなれたわけではなかった。
働かなければ、この子を育てられない。
でも、何をすればいいのか分からなかった。
それまでの私は、自分の人生を、選んだことが一度もなかった。
進学も。結婚も。住む場所も。全部、親が決めた。
私にできる仕事は、何だろう。その答えを探すように、本屋へ向かった。
資格の参考書が並んでいた。何冊も手に取っては、戻す。何度も、棚の前を行ったり来たりした。
「できるわけがない。」
そう思った瞬間、胸の奥で、聞き慣れた声がした。
「女に学問はいらん。」
父が、何度も何度も、私に言い続けた言葉だった。いつしか、父の声は、私の声になっていた。
それでも私は、一冊の参考書を選び、レジへ持って行った。 たった一冊の本を買うだけなのに、悪いことをしているような気がした。
家へ帰ると、誰にも見つからないように、クローゼットの奥へ隠した。
夜、夫が寝静まると、机に向かった。
一問解けるたびに、胸が少しだけ弾んだ。 知らなかったことが、わかる。昨日まで読めなかった文章が、今日は読める。 父の言葉だけが、世界のすべてじゃなかった。
私は、ずっと知らなかった景色を見たかった。 誰かの娘でも、妻でもなく、「私」として、生きてみたかった。
やがて、息子が、生まれた。
小さな手。小さな声。 腕の中で眠るその重みに、私は、何度も、救われた。
首がすわり、寝返りを打ち、はいはいをして、立ち上がる。 「まんま」「ママ」と、たどたどしく言葉を覚えていく息子を見るたび、私は、思った。
この子にだけは、私と同じ思いをさせたくない。
夫は、相変わらずだった。機嫌が悪ければ物に当たり、義父の前では萎縮し、家では威張った。 それでも私は、そんな人生で、終わりたくなかった。何より、少しずつ大きくなっていくこの子に、「哀れな母親」だと思われたくなかった。
資格の勉強は、細切れの時間を縫うようにして、続けていた。 息子が昼寝をしている間。夫が出かけている間。 知識が、少しずつ積み重なっていった。
息子は、いつしか、クレヨンを握れるようになっていた。 「お母さん、見て。」 描いた絵を、得意げに、私に見せてくれる。その笑顔が、私の、何よりの支えだった。
「もう、限界だ。」
そう思った瞬間は、些細な出来事だった。
夕食の片付けをしていた私の視線の先で、夫が、ピーナッツの殻を、ぽいぽい、と捨てていた。
その下にあったのは、息子が一生懸命に描いた、私と二人で水遊びをした日の絵。 お父さんに見てほしいと、大切にテーブルに置いてあった、はずだった。
「ちょっと、それ、あの子が描いた絵……。」
「は? 殻捨てただけだろ。」
「大事にしてたのに。」
「絵なんか、また描かせりゃいいだろ。」
まるで、ただの新聞広告のように、殻を落とされるその絵を見たとき、私の中で、音もなく、何かが崩れ落ちた。
この人は、大切なものを、大切にできない人だ。
この人と暮らしていては、子どもは、きっと「大切にされる感覚」を知らないまま、大人になってしまう。
次の日
私は、離婚届を、テーブルに置いた。
不思議なくらい、私は、落ち着いていた。
夫は、黙って、離婚届を見つめた。 少しの沈黙のあと、彼は、ぽつりと言った。
「……お義父さんには、何て言うんだよ、これ。」
最後まで、彼が気にしていたのは、私のことではなく、父のことだった。
何も言わずに、彼は、名前を書いた。
引き止められると、思っていた。怒鳴られると、思っていた。でも、何もなかった。
もともと、彼には、主義も主張もなかったのだろう。私が人生を懸けて出した答えにも、静かに判を押しただけだった。
あまりにも、あっけなかった。
離婚届を、カバンに入れ、家を出た。
次は、父だ。
実家が近づくほど、足が重くなる。何度も、引き返したくなった。それでも、一歩ずつ、玄関へ向かった。
「離婚してきた。」
私が、そう告げた瞬間、父の顔色が変わった。
「誰が、そんなこと、許可した。」
「……誰の許可も、いらないでしょう。私の人生だから。」
「お前の人生は、俺が決めるんだ! 勝手なことしやがって、俺の顔に、泥を塗る気か!」
机を叩き、怒鳴り、私を殴った。
母は、泣きながら叫んだ。
「裏切り者! お父さんに、何て謝るのよ!」
その言葉を聞いても、不思議と涙は出なかった。悲しいというより、 「ああ、やっぱりね。」 そう思った。
でも、心のどこかでは、期待していた。
「今まで、苦しかったんだな。」 「気づいてやれなくて、悪かった。」
たった一言で、よかった。今さらでもいい。私という人間を、見ようとしてほしかった。
でも、その言葉は、最後まで、聞けなかった。
私は、娘ではなかった。両親の人生を完成させるための、歯車だった。父と母が思い描いた人生から、一つの歯車が外れただけだった。
それでいい。そう思えた。
家に戻ると、夫はいなかった。
私は、荷物をまとめた。こっそり貯めていたお金と、最低限の身の回りのものだけを持った。 思い出の写真も、卒業証書も、結婚指輪も、置いていった。
抱きかかえた息子だけは、離さなかった。
玄関の扉を開ける。振り返らなかった。 振り返れば、また、鎖につながれてしまう気がした。
家を出た瞬間、凍るような冬の空気が、頬を刺した。鼻の奥が、つんと痛んだ。私は、空を見上げた。
「すうぅーー。」
冷たい空気を、胸いっぱいに吸い込む。
「はぁぁーー。」
白い息が、ゆっくり空へほどけていった。
こんなに深く呼吸ができたのは、生まれて初めてだった。 空気にも、味があるんだ。
私は、自分の足で、最初の一歩を踏み出した。


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