「もう、限界だ」
そう思った瞬間は、些細な出来事だった。
夕食の片付けをしていた私の視線の先で、夫がピーナッツの殻をぽいぽいと捨てていた。
その下にあったのは、子どもが一生懸命に描いたクレヨンの絵。
それは大切にテーブルに置いてあった――はずだった。
まるでただの紙くずのように、殻を落とされるその絵を見たとき、
私の中で、音もなく何かが崩れ落ちた。
この人は、大切なものを、大切にできない人だ。
この人と暮らしていては、私は――そして、私の子どもは、
きっと「大切にされる感覚」すら知らないまま、大人になってしまう。
最初の夫は、“優しさ”という仮面をつけて、私の前に現れた。
父に紹介され、車を与えられ、会社では役職まで用意された。
すべて「父の息がかかった場所」で守られていた彼は、自分で築く努力をせず、ただ甘えるばかりの人だった。
そして、結婚と同時に仮面は剥がれた。
欲しいものを手に入れた彼にとって、私という存在は、もう“配慮”の対象ですらなかった。
私が自立のために働き始めると、彼はこう言った。
「お前が稼いでるんだから、俺は無理しなくていいだろ」
「お前の顔を見ると、義父を思い出して気分が悪い!」
――彼は、父への怒りを、私にぶつけていた。
私は夫のサンドバッグであり、両親の養分だった。
でも、そんな人生で終わりたくなかった。
何より、息子に「哀れな母親」だと思われたくなかった。
毎日、仕事に出て、保育園へ送り迎えし、夜は夕食を作り、家事をして、子育てして、彼の機嫌まで取る日々。
心はじわじわと摩耗していき、黒い感情に私はどうにかなりそうだった。
夜、子どもを寝かせたあとの静けさが、一番怖かった。
冷たく、重く、抜け出せない闇。ドロドロとした黒い煙が私を包み込む。
「このままじゃ、私も息子も潰れてしまう」
夫は働かないだけでなく、生活費を浪費し、不機嫌を家中にばら撒いた。
“家族”という言葉は、もう愛の形ではなく、私を縛る檻になっていた。
そしての頭にどこかで見たフレームが浮かんだ。
死ぬこと以外は、かすり傷。野垂れ死に? 上等だ。
あの言葉が、心の奥底から力強く湧き上がってきた。
資格の勉強も始め、少しずつだけど仕事にも慣れていた。
「私には、もう自分の足で歩いていける力がある」
そう思えたとき、むしろ――ここに居続けることの方が、ずっとマイナスだ。
父には殴られ、兄との揉め事を避けたくて家の財産はすべて放棄した。
母の最後の言葉は、「この裏切り者!」という怒鳴り声だった。
でも――
離婚届を提出したあの日、私は人生で初めて、深く息を吸った。
お腹いっぱいに、食べ物ではなく、“空気”を吸った。
それは、生きていると実感できる、格別の味がした。
もちろん、不安はあった。
これからは母子家庭。責任はすべて私一人の肩にのしかかる。
けれど、“怖い”とは思わなかった。
息子の顔を見て、小さな手を握ると、不思議と力が湧いてきた。
「なんでもできる。私なら、きっと超えていける」
そう信じられた。
私はこの日から、本当の意味で“母親”になったのだと思う。
誰かに守られる存在ではなく、
誰かを守ることで、自分自身をもう一度、つくりなおす母親に。
これから先、また何度でも傷つくだろう。
でももう、私は――
誰かの顔色をうかがって生きる人生には、二度と戻らない。
これからは――
自分のご機嫌は
自分で取る人生を生きていく。
そう、私は自分に誓ったのだ。
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