あの夜、布団の中で読み聞かせた絵本のページを閉じたとき。
私は静かに、けれど確かに、人生の優先順位を変えたのだった。
子どもと一緒に朝ごはんを食べ、お弁当を作って「いってらっしゃい」と送り出す。
そして、「おかえり」と言える時間に家に帰っている。
ただそれだけの当たり前の暮らしが、こんなにも温かく、こんなにも尊いものだったと、やっと気づいた。
私はカフェを閉じ、ハローワークに通いながら仕事を探した。
家から近くて、定時に終わる仕事。それが最優先だった。
職務経歴書には正直に、「家庭を大切にしたいです」と書いた。
面接でも、背伸びせずそう伝えた。
そして、家の近くの不動産会社に採用された。
そこは、最悪の上司と陰湿な女子社員がいる職場だった。
でも、不思議なほど心は平穏だった。
彼らの陰口も、ミスのなすりつけも、私にとってはもう“どうでもいいこと”だった。
私は知っている。「帰る家」があって、「守るべき人たち」がいる。
それが、どれだけ私の心を強くしてくれるかを。
毎朝お弁当をつくり、夜は家族で夕食を囲み、休日には小さな楽しみを見つけて一緒に出かける。
そんな日々を何年か重ねるうちに、心の中に静かな満足が広がっていった。
やがて、長男は大学に合格し、他府県でひとり暮らしを始めた。
次男も部活や友達との時間が増え、私と過ごす時間はゆっくりと減っていった。
「あれ……もしかして、子育てが一段落した?」
寂しさと、少しの安心が胸の中で揺れた。
でも、その感情に呑まれることなく、私は気づいていた。
子どもたちは、ちゃんと育ってくれていたのだ、と。
そして、ようやく自分の時間を持てるようになった私は、
今度こそ、「これからの人生」を、心から考えられるようになった。
私は、母としての役目を果たした。
次は、一人の女性として、どんなふうに生きていくのか——
それが、新しい人生のテーマになった。
コメント