聖なる拒食と現代の摂食障害。同じ「食べない」でも向かう方向は真逆だった。

摂食障害 依存 気づき

中世ヨーロッパの「聖なる拒食」を知った時の衝撃

中世ヨーロッパに「聖なる拒食」と呼ばれた現象があったことを、ご存じでしょうか。

聖女たちが、宗教的恍惚の中で食を絶った記録です。

最初に知った時、私は思いました。

今の摂食障害と、同じではないかと。

長年、過食嘔吐に苦しんできた私には、 「食を絶つ」という行為は、地獄の入り口にしか見えなかったからです。

でも、調べていくうちに分かりました。

同じ「食べない」でも、向いている方向が、真逆だったのです。

中世の修道士たちが断食した本当の理由

中世の修道士たちは、こう考えていました。

食欲や快楽に流されるほど、人は神から遠ざかる。

だから断食、沈黙、祈り、労働、禁欲が、セットで行われていたのです。 ベネディクト会の「祈り、働け」という言葉が、今も残っています。

断食をすると、意識の状態は確かに変わります。 感覚が鋭くなり、多幸感や深い集中、時に幻視に近い体験まで起こることがある。

ただし、中世キリスト教は、これを「内なる力が開く」とは説明しませんでした。

スピリチュアル界隈でよく語られる「チャクラが目覚める」「第三の目が開く」というのは、後世のニューエイジ系の解釈で、当時の修道士たちの世界観ではありません。

彼らが使ったのは、神の恩寵、魂の浄化、誘惑との戦い、という言葉でした。

つまり、自分の中の何かを「開く」のではなく、 自分の欲望を「小さくして」神に従う。

これが、聖なる拒食の本当の構造です。

聖なる拒食は「上向き」の取引だった

差し出すもの:自分の食欲、自分の肉体、自分のエゴ。 受け取るもの:神との近さ、祈りの深まり、魂の清さ。

ベクトルは、自分から、外の絶対的な存在へ。 完全に、上向きだったのです。

現代の拒食は「内向き」に閉じている

私たちの拒食は、内に閉じています。

痩せたい、認められたい、消えたい、コントロールしたい。 神ではなく、他人の目に向かっている。

「見て」と「消えたい」が、同時にあります。

中世の修道士は、神と取引していました。 現代の私たちは、他人の評価と取引しているのです。

虚飾の拒食、という現代の構造

ここで、もう一つの角度が見えてきます。

現代の拒食は、「虚飾」と取引しています。

痩せれば、認められる。 痩せれば、価値がある。 痩せれば、愛される。

そう信じて、自分の体を削っていく。

でも、これも取引なのです。

差し出すもの:自分の体、自分の食欲、自分の生命力。 受け取るもの:他人からの「綺麗」「すごい」「羨ましい」という言葉。

差し出しているのは、自分自身。 受け取っているのは、他人の評価。

そして、この取引の毒は、必ず体に戻ってきます。

過食嘔吐、衝動的な食行動、リバウンド、もっと痩せたいという終わりのない渇望。

入ってきた質と同じ質で、出ていく。 他人の評価で自分を消した分、自分を罰する形で、心と体が暴れるのです。

私が長年、この取引の中にいた話

私は長年、この取引の中にいました。

痩せれば全てが解決すると信じていた。 でも、痩せても、痩せても、満たされなかった。

なぜなら、入り口で自分を消していたから。 出口で、自分を罰しないと、辻褄が合わなかったのです。

過食嘔吐は、その辻褄合わせでした。

聖女と現代人を分けるもの

聖女と現代人。 同じ「食べない」でも、決定的に違うのは、方向です。

中世の修道士は、自分を差し出して、神を受け取ろうとしていた。 その是非はさておき、ベクトルは明確でした。

現代の拒食は、自分を差し出して、他人の評価を受け取ろうとしている。

でも、他人の評価は、神ではありません。 今日「綺麗」と言った人は、明日「太った?」と言う。 受け取った評価は、すぐに消える。 そして、もっと欲しくなる。

終わりのない、自分を消す取引です。

抜け出す方法は、取引の中身を変えること

抜け出す方法は、一つしかありません。

取引の中身を、変えること。

「自分を消して、評価を受け取る」から、 「自分自身を差し出して、自分の人生を受け取る」へ。

食べないことではなく、食べながら自分を確かめる

食べないことで、自分の存在を確かめていた私は、 今、食べながら、書きながら、自分の存在を確かめています。

祈る方向を、変えただけです。

中世の修道士のように、神に向かう必要はありません。 他人の目に向かう必要も、もうない。

ただ、自分自身に向かえばいい。

今日、何を食べたいか。 今日、何を書きたいか。 今日、誰と話したいか。

その小さな問いに答えることが、 食を絶つよりずっと強い、自分への祈りになるのです。

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