五月晴れの日曜日。
こんな日に家にいるのはもったいない――そう思い立って、和歌山県の九度山へ出かけてきた。あの戦国武将の真田幸村が、14年もの長い時間を過ごした土地だ。
青い空、新緑のにおい、ゆるやかな山あいの道。車に揺られているだけで、心がふわっと軽くなる。観光地の幟がはためいて、名物の幟を見ては「お腹すいたな」なんて思う。完全に行楽モードだ。
ところが、真田庵へ向かう坂道をのんびり歩いているうちに、ふと足が止まった。
(戦国時代にここで生きていた人たちって、「生きがいとは何か」なんて考えていたのかな……?)
たぶん、考えていない。お腹がすいた、家族を食わせなきゃ、明日をどう生き延びるか。きっと頭のなかはそれでいっぱいで、「生きがい」なんて言葉が入り込む隙間はなかったはずだ。
じゃあ――いま私たちが「生きがいとは?」「自分はこれでいいの?」と悩むのは、もしかして……暇だから?
せっかくの行楽日和に、思いがけず深い問いにぶつかってしまった。でも、せっかくなので、この問いをじっくり掘り下げてみたい。
生きがいとは何かを悩めるのは、生存の危機がない証拠
心理学者マズローの「欲求5段階説」をご存じだろうか。
人間の欲求にはピラミッド構造があり、一番下の「食べたい・安全でいたい」が満たされて初めて、上の段階へ意識が向く仕組みになっている。
戦国時代の庶民は、そのピラミッドの最下層、つまり「今日を生き延びること」だけで脳が100%埋まっていた。「生きがいとは何か」を考えるどころではない。
現代の私たちはどうだろう。蛇口をひねれば水が出る。コンビニに行けば飯がある。最下層があっさりクリアされているから、脳みそのエネルギーが行き場を失い、「自分の意味」を探し始める。
つまり、「生きがいとは何か」と悩み出すのは、命の危険がない平和な状態の証拠。悩めること自体が、すでに贅沢なのだ。
犬はクッションをかじるだけで「なぜ犬に生まれたのか」とは悩まない
余白のエネルギーで「自分の存在意義」を悩めるのは、地球上で人間だけだ。
犬や猫も、飼い主が出かけてひとりになれば退屈する。退屈を持て余して、クッションをボロボロにしたりする。でも「俺はなぜ犬として生まれてきたんだろう…このままドッグフードを食べ続ける人生でいいのか?」とは悩まない。
なぜなら、過去を悔やみ、遠い未来を想像して、今の自分をジャッジする機能は、人間の前頭葉にしかないからだ。
「生きがいとは何か」と悩むのは、人間だけの特権であり、発達しすぎた脳のバグでもある。
「自分はこれでいいのか」と思ったら、こう返してみる
「うわ!今、暇なんだ!」
これだけでいい。
「脳のメモリが余ってる。生存の危機がなくて平和な証拠。贅沢な悩みが始まっちゃった!」と、自分にツッコんでみる。それだけで、自己批判のループから一歩引いた場所に立てる。
悩んでいる自分を責めなくていい。「生きがいとは何か」と悩めるほど、あなたは安全なところにいる。
生きがいとは「探す」ものではなく、後から「気づく」もの――真田幸村の話
九度山の真田幸村は、関ヶ原の戦いの後、14年間の蟄居(ちっきょ)を強いられた。それはまさに「圧倒的な余白(暇)」だった。
彼が最初からやっていたのは、「大坂の陣で歴史に名を残そう!」ではない。目の前の家族を食わせるために真田紐を編み(真田紐はお土産に買いました)鈍らないように戦術を学び、家臣たちと「これからどうするか」を語り合った。ただそれだけだ。
「今、ここ」に必死になっていたから、いざ大坂城から誘いが来たとき「これだ!」と迷わず飛び込めた。
生きがいとは、先に見つけてから動くのではなく、動いていたら後から「あれがそうだった」と気づくものだ。
まとめ:今日の「目の前」に戻ってみよう
「生きがいとは何か」と悩み始めたとき、それはあなたの脳が平和の証拠として出すサインかもしれない。
悩んだら「今、暇なんだ」とツッコんで、生きがいを探すのをいったんやめてみる。
あなたが今、目の前に集中できていることは何ですか?
どんなに小さくてもいい。「これをやっているとき、余計なことを考えない」という何かが、あなたの生きがいの芽になっている。
九度山の静かな空気のなかで、私はそんなことを思った。帰り道の電車では、また「お腹すいたな」と、すっかり行楽モードに戻っていたけれど。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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